障がい者雇用を通じて生まれた社内の変化

障がい者の方を受け入れるにあたり、私たちは幹部を集めた勉強会や、施設の方に来ていただき、一緒に働くことになる工場の社員たちに向けた説明会を開催しました。また、障がい者福祉に携わっていた方も田中衡機の社員としてチームに加わっていただき、組織としての体制を整えていきました。
それだけのことをやってもなお、障がい者雇用をはじめてまもなくの頃は、「障がいを持つ新しい仲間とどう接したらいいのか」と多くの社員に戸惑いが見られたのは事実です。しかし、懸念していたような不安の声は上がることなく、時が経つとともに戸惑いもなくなっていきました。
そこで大きな役割を果たしたのが、仕事のやりとりの中の、ちょっとしたコミュニケーションです。
たとえば、障がいを持った社員が別の場所にものを取りにいく場合、その場にいる社員に前もって「〇〇さんが今から取りに行きますよ」という連絡を一本入れるようにしていました。そのような日常的なやりとりの積み重ねが周囲の緊張感をやわらげ、社員にとって、いつしかそれが当たり前の状況になっていきました。そういったゆるやかな変化のなかで、障がい者の方々は、少しずつ本当の意味で田中衡機の社員になっていったのです。

しかし当然ながら、すべてが順調にいったわけではありません。課題として浮き彫りになったのは、仕事の指導方法です。
はかりづくりは、「見て覚える」ことで伝承してきた職人の世界。昔から携わっている職人にとって、ひとつひとつの作業はとても感覚的なもので、なかなか理論的に説明することができませんでした。一方で、障がい者の方々は、何を伝えても「伝わった通り」に忠実に取り組みます。それゆえ、伝わり方に間違いがあると、間違った通りに作業してしまうのです。
ある時、作った部品がすべて不良品になるということがありました。原因を調べてみると、彼らは教えられた通りに作業しており、問題は、教え方・伝え方にあったことがわかったのです。以来、これまで感覚的に行われていたはかりづくりの手順を、理論的に捉えて分解し、写真入りの手順書に落とし込み、障がい者の強みが活きる作業工程を明確にしながら教えていくことで、仕事もうまくいくようになりました。

そういった工夫をしていく中で、障がい者の方にもうれしい変化がありました。
ある社員は、現場の社員たちと打ち解けるまでには時間がかかったものの、一度打ち解けてからは、よく好きな小説の話で盛り上がったり、休憩時間に積極的に話しかけにいったりするようになりました。またある社員は、前に働いていた会社で仕事がうまくいかず、自信を失い体調を崩してしまった経験を持っていましたが、田中衡機で働くうちに少しずつ作業スピードが上がり、「順調にお仕事ができています」とやわらかい表情で話してくれるようになりました。
このように一人一人が、日々、成功体験を積み重ね、少しずつ自信をつけていく。こうした変化は、彼らが田中衡機で安心して働くことができていることの証であり、そのことが、彼らとともに働いているメンバーに感動を与え、やりがいにもつながっているのです。

障がい者が誇りを持って働ける社会に。
田中衡機から新潟へ。そして全国へ。

2021年現在、シャイな3名の男性とお話が大好きな女性1名という、個性豊かな4名の方が「はかり屋」の一員として働いています。
社内外さまざまな方の協力もあって、現時点では順調に進んでいますが、まだ道のりは長く、険しいと考えています。私たちの目標は、ますます製造の継続が難しくなるであろう機械式はかりを、いずれは障がい者の方々が中心になってつくれるようになることです。今後自動化が進む部分はあるにしろ、職人の手仕事が必要になる部分は必ず残ります。障がい者の方々がその部分を担うことで、彼らの力で、日本で唯一の機械式はかりをつくっていく。そうすることで、日本、地域に貢献し、彼ら自身も誇りを持って働くことができる。その状態を維持できてはじめて、「うまくいった」といえると思っています。

障がい者の方に誇りを持って働いていただくこと。そしてそれを慈善事業ではなく、理念を体現する企業活動として、きちんと継続していくこと。これはとても大きなチャレンジですが、もしうまくいけば、ものづくりにおける障がい者雇用のひとつのモデルケースとなり、日本中の他の企業にも波及していけるのではないかと考えています。
私たちの取り組みがひとつのきっかけとなって、燕三条を、新潟を、そして日本を、誰もが誇りを持って働ける社会にしていくこと。それが、私たちの最終的な夢であり、決意でもあるのです。